あまりにも当たり前すぎるし、これまで実際にやってみては失敗してきたことが「ノートに書く」ということです。
ぼくは元来の面倒くさがりやで、とにかく「大事だ」「有効だ」といわれてきたこの「ノートに書く」ということに対しても、やってみては挫折して…を繰り返してきていたのです。
しかしながら、昨日「発想源」のノートをやっているときにふと「面倒だからこそやったらええがな」ってことを思ったりしました。
記憶するのも面倒くさい
おそらく記憶力は悪いほうではなく、仕事でもあまりクリティカルな忘却を犯したことはないのですが、仕事が増えたり仕事外でも色々やろうとすると「あ、忘れてた」ということが徐々に…
今のところクリティカルになっていないだけで、これから先にどうなるかはわかったものではありません。
あまりに多くのことに囲まれると「記憶するのも面倒」という賢者モードに入ってしまうので、ノートに書くことにしました。
ていうか、なんでやってなかったんでしょうか。
思考が思った以上に整理できる
昨日、発想源の課題やってて思ったのですが、ノートにガンガン書いていくことで自分の思考が思った以上に整理できます。
何がボトルネックになっているのか、何がわかっていないのか、自分に何が足りてないのか、そういうのも含めてよく見えるようになる。
見えるのが嫌…というのはあるかも知れないのですが、ここから逃げるわけには行かないのでね。
これまでもノートに書いてきたこととかあったのですが、昨日は今までにない感覚を覚えるくらい「あ、これは有効だわ」と思いまして。
型にこだわると止まる
で、今まではなんで続かなかったんだろう?と考えてみたときに、結局「どう書いていいかわからない」という思いがあったんですよね。
でも「とりあえず型とか何を書くとかどこに書くとかを外す」ってやったら、思いのほかスムーズにいったんですよ。
世には「ノート術」みたいな本がけっこう出版されていたりするけれども、まずは書くことに対するハードルを下げて、波に乗ってから型を作って、守破離プロセスに移行してもいいのかなと。
別に誰に見せるわけでもないし。
何の強制力もないなかで何かをやる場合、とにかくハードルを下げるって大事ですね。
徐々にできるようになればいいと、軽く考えていこうと思った次第。
アスリートにも応用が利く
これはアスリートの方にも応用が聞くと思います。
中村俊輔選手の「サッカーノート」の理屈とようは一緒です。
自分の良い時や悪かった時を書き留め、自分のパフォーマンスを微修正していくんですね。
ノートに書くことで曖昧にならないし、やってみると分かりますが、曖昧にしていることは書く手が止まります。
その点で、ノートに書くという行為自体がセルフコーチングになったりするのです。
まとめ
人によって何が思考整理にとって有効かは違うと思います。
ぼくのような面倒くさがりなんかはとにかく「面倒くさい」ことを回避したがりますしね。
でも、面倒がりだからこそ、このノートに書くというのが僕にとっては有効で、考えるのもラクになるし、記憶も代わりにやってくれるわけですからね。
ぼくと同じような状況に陥っているかたは一度試してみるのも一興かと思います。
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